OKI「SAKHALIN ROCK」ロングインタビュー

vol.1→「今までなかなか繋がらずにいたことが、サハリンに行って初めてわかった。」
vol.2→「役者が一組足りていない… サウダージのような感じがしたんだ。」
vol.3→「歌のメロディーをそのままベースラインに置き換えるとレゲエになってる」
vol.4→「ブルーズとアイヌ音楽、共通するんだよ。悲しいのと、やけくそなのが。」
vol.5→「ワールドスタンダードではオレ達のやっていることは特殊じゃないよ。」

vol.1「今までなかなか繋がらずにいたことが、サハリンに行って初めてわかった。」

>サハリンを訪れたのが「SAKHALIN ROCK」を作るきっかけになったとか。

「今年の1月の10日にサハリンに初めて行ったんだよ。それまでは五年前、 国後島に行く時にサハリンに一日だけ寄ったことがあっただけで、それは行ったうちに入らないね。 その時はユジノサハリンスク(サハリン州の州都)で行われたイベントに出演して、トンコリを数十分弾いただけなので、 行ったうちに入らなかった。今回はトンコリの源流を訪ねたんだ。サハリンに行って、昔アイヌが住んでいた村に行っても、 今はもうどこにもアイヌは住んでいない。(日本政府は明治8年にロシアとの間に樺太千島交換条約を結び、 サハリンや千島に住んでいたアイヌを強制的に北海道や色丹島に移住させた。その後も第二次世界大戦末期の1945年にソ連が南樺太と千島列島を占拠し、 残っていたアイヌは日本に強制送還された)なので、ある意味自分の中でサハリンに行く理由はない気がしていたんだ。 でも、オレはこれまで十四年くらいトンコリを弾いていながら、この楽器の故郷サハリンに行ってなかった。 今回、訪れて思ったのは、なんでもっと早くに行かなかったんだろうと。」



>トンコリはサハリンの楽器ですもんね。

「そう。もうアイヌがいないなら行っても仕方ないと長らく思っていたけど、行った瞬間にそれは違ってたなと気づいて。 「SAKHALIN ROCK」の歌詞に出てくるオタサムという町、今はフィロソフォと呼ばれているんだけど、そこは松浦武四郎 (幕末から明治時代にかけて活動した探検家。蝦夷地を探索し北海道という名前を考案した)が書いた1840年頃の日記に出てくる。 松浦が最初に樺太を訪れた時にオタサムという村でオノワンクという老人に出会った。その豊かなヒゲの中から覗く眼光が只者じゃない気配を漂わせていたと。 だが、別に何かを話すわけでもなく、いつもトンコリを弾いている。ある日、6月の黄砂で霞むおぼろ月夜の下にトンコリを持ち出して、 浜に出かけて歌のようなものを歌いながら、トンコリをずっと弾いていた。食事のために家に戻っても、食事は半分ほどで残りは子供達にあげてしまって、 またトンコリを弾き出す。何故そんなに弾いているのかと訪ねると、「松前藩が樺太に漁場を開いてからというものの、 アイヌは無理矢理連れて行かれて朝から晩まで働かされるので今ではこのトンコリをまともに弾ける者がなくなった。だからなんとかこの楽器を後世に伝えたい、 そういう気持で弾いているんだ」と。それを聞いた松浦武四郎はスゴい人物だなあと書いてあるんだ。

当時は松前藩の出先機関が漁場を拡大してきて、樺太まで進出していたんだよ。そこに支配人を置いて、番屋を作って、労働力はアイヌ。 人権なんてなかった時代だから、アイヌは労働力として連れていかれて、半分奴隷のように使われていた。そんな恐怖で支配されていた時代、 それが1840年、それから100年も経たないうちに今度は西平ウメさん、アイヌ名「スカ」さん(サハリン出身、北海道に暮らした女性トンコリ奏者、 昭和30〜40年代の録音が残されている)が登場するんだけど、よく考えたらスカさんはオノワンクの孫の世代に当たるんだよ。 ということはオノワンクの技法を直接は聞いてないかもしれないけど、どこかで伝わったリズム感、グルーヴ感を継承しているような気がしたんだ。 そういうことがサハリンに行って初めてわかったんだよ。今まで持っていた知識がなかなか繋がらずにいたんだけど。」

>本は読んでいるし、スカさんの演奏は聞いてはいても、繋がらなかった何かがサハリンで繋がったと?

「そう。サハリンに行って初めて、ああ、こういうことだったのか、と。自動車とか本を読んで動かし方を知ってはいても、 いざ道路に出て初めて、ああ、こういうことだったのかとわかるだろ。それと同じように」

>腑に落ちたと?

「オタサムの雪の中に立った時になぜかちょっと安らいだ自分がいた。こう、デジャブにも似た瞬間があったので。 150年前ってすごく昔のような気がするけど、実はごく最近の出来事だったんじゃないかと。 それと残念なのは、北緯50度から北に住む少数民族、ニヴヒ(樺太中部以北及び一部シベリアに住む少数民族。古くはギリヤークと呼ばれた) とかナナイ(主にアムール川流域に暮らすツングース系の民族)はまだその土地に住んで暮らしていて、伝統文化も残っている。 でも、サハリン・アイヌだけは消えたんだよ。コロボックルが消えたように、ある日突然サハリンから消えたんだよ。その喪失感も感じたね。 一言で言えば近代国家に日本がなっていく上で、今まで曖昧だった国境に対する意識がロシアの南下によって危機感を呼び、 両国の国境線引きゲームの犠牲になったのがサハリン・アイヌだということです。」

>なぜ今になってサハリンに行くことにしたんですか。

「偶然だよ。昔から一緒に山に登っていた写真家の伊藤健次(北海道岩見沢市在住の写真家。北海道の山野を歩き、原生自然の生命力や土地の記憶を伝え続けている)が サハリン撮影の仕事を取ってきて、一緒に行くかと誘われたので、行く行く!と。それで10日間の旅に行ってきた。千歳空港から飛行機で一時間だよ。 日本からあんなに近いのに、向こうに行ったら自力で回れない。運転手付けて、通訳ガイド付けての旅行ですよ。」


>飛行機で一時間、着いた先にいるのはロシア人!

「そう。もうヨーロッパだよ。シャラポワみたいな美人が一杯歩いているし。ヨーロッパが長い長い腕を伸ばして、極東にリーチをかけてる場所がサハリン。 ヨーロッパの長い腕がすぐそこまで迫ってる」隣にヨーロッパの国があるなんて意識を持ってる日本人は少ないんじゃないか?」

>そこにかつてトンコリが存在した。

「そうなんだよ。今住んでいる人達はトンコリを知ってるかどうか....。やっぱりロシアは面白いよ。例えば第二次世界大戦前の王子製紙の工場がそのまま残ってる。 お金がないから撤去できないんだろうけど、巨大な煉瓦造りで、屋根もないし、窓はボロボロ、壁だけの建物。でも、よく見ると煙突から煙が上ってる。 聞くと、町はセントラルヒーティングになっていて、デカいパイプで各家家に熱湯を送ってるんだけど、その熱湯を供給するために王子製紙のボイラーを一部直して使っている。 マイナス20~30度の外気の中をでっかい鉄のパイプが通ってるんだよ。途中で冷えちゃうのに。無駄だよね。それでも石炭バンバン焚いて、喉が痛いと言いながらそれを使ってる。 ソ連時代のモニュメントもあるし、鳥居すら残ってるからね、寂しい漁村の小高い丘にポツンと。不思議な世界だよ。「SAKHALIN ROCK」のミュージックビデオにも その鳥居は出てくる。150年くらいの間に、アイヌ時代、ソ連時代、そして今と、激しく体制が変わって、名前だってその度に変わってるからね。アイヌ名のオタサム、 日本名は漢字を当てて小田寒、そしてロシア名のフィロソフォと。」



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vol.2「役者が一組足りていない… サウダージのような感じがしたんだ。」

>サハリンロックというアイディアはサハリンに行って帰ってきてから浮かんだんですか?

「アルバム作りってのはいつも必死だけど、今回はサハリン旅行が更に必死にさせた。サハリンから帰ってきて、そこでもらってきたものはいっぱいあったんだけど、 それをどういう風に還元させたら良いかと考えたね。でも、まずはとりあえず始めようと、サハリンの伝統曲で気に入っているトンコリのリフがあったから、 それを帰ってきてすぐに録音して、全く同じリフを2トラック録音した後にリズムを入れて、次は歌を行こうとマイクを立てて、録音ボタンを押して、スタート。 そしたら最初に出てきたのが「サハリンロック!」という言葉だった。そこで一人でウォ~!っとなって、そのまま録音して、ほぼファーストテイクが一曲目になった。ほとんどいじってない。 もしもだよ、サハリンにまだアイヌたくさん住んでいたとしたら、まちがいなくトンコリをアンプに繋いでロックしていたはず。これは単なる憶測ではなく実際にンゴニやコラ、 イリンバなどのいわゆる民族系楽器は今ではアンプにつながっているからね。ティナリウェンやべえ!とかロシア語で話してる樺太アイヌもいたことでしょう。 そういう奴らはどんな音楽をやってるだろうと想像すると、サハリンロックみたいな音楽やってるんじゃないかと思うんだよね。ちょっと70年代っぽくてさ。

 そういえば国後島に行った時、ガイドのオジサンが日本のハイエースに乗ってて、助手席に海賊盤のCDRとか沢山置いてあって、 そこにあったのがナザレスとか70年代のUKのハードロックバンドだったんだ。知らないだろ?ハードロックの信奉者しか知らないような音楽を聞いてるんだよ。 俺だって聞いたことないもん。ほかにもいろいろあるはずなのになんでナザレスかと思った。ロシアの若い子はみんなダサめなロシアンテクノが主流ですね。 ついでにいうと俺の好きな70年代というとやっぱりジャメイカのロッカーズが一番、それとナイジェリア、マリ、ギニアの70年代もいい。」

>プレスリリースには「サハリンで、今までトンコリ奏者として築き上げてきたものが音を立てて崩れていった」と書かれていますが。

「そう。サハリンに行くのがこんなに遅くなってダメだなと、自分の心がけの低さみたいなのを感じてしまって反省しました。 でも、今がその時期だったような気もするし、行ったおかげで、真面目にやらなきゃ後がないと気づいたんです。気合いが入ったんだよ。 音を立てて崩れたんだけど、なんとかセーフ!みたいな。」

>音を立てて崩れたにも関わらず?

「セーフと思えたのは「サハリンロック」を書けたからです。それまではなんか自信喪失してるのにアルバムを作らないといけない、 つまり曲を書かないといけない状態だったんだ。悪いことは重なるものでプライベートでも信じられないような事件が立て続けに起こったりしたので、 気持ちを削がれることも多くて....。そういう時は音楽が楽しくない。トンコリを持つのも苦痛なんだけど、必死にしがみついた。それで伝統的なリフを元に、 初めてリズムを作り終えた時、サハリンのささくれだった、サビ色の凍てつく寒さが『熱い固まり』になった気がした。歌を入れ、最後にベースを弾き終わると、 北緯50度の真昼でも低い太陽のような曲になった。だから「サハリンロック」は俺の旅日記みたいなものなんです。
 余談ですが、トンコリの原木も仕入れてきました。向こうに着いてすぐに、オレ、木を買うわ、と言い出して。それで一日潰した。木はタダでもらったんだよね。 帰りの飛行機でオーバーチャージを100$くらい取られたけど。北海道と気候が全然違うので、本場の材を使って作る意味はある。とど松と唐松の2種類を持って帰ってきた。 それを使ってこれからトンコリを作るんだけど、現地の木を手に入れようと思いついたのもサハリンに行ってから。旅をすると脳の回転が確実に速くなるからね。」


>アイヌのいない所には何もない、というわけではなく、アイヌはいなくとも何かを感じたと?

「そうそう。このCDのジャケットの写真は何処だと思う? この写真は北緯五十度の近くの町ポロナイスク (人口約17500人ほどのサハリン中部の町、かつて日本とソ連の国境に位置した)の川の氷の上を歩いているんだよ。冬になると川が凍っちゃうんだ。 この町の近くはかつて「オタスの杜」と言って、日本統治時代に地域の原住民を集めて、一つの場所に押し込めて、民芸品とか作らせて観光地として売り出したんだよ。 この川の対岸は今も原住民が住んでいてゲットーのような所になっている。ポロナイスクの博物館にはサハリンアイヌの遺跡を発掘調査している考古学者もいるんだよ。 サハリンは南北は東京札幌間くらいの距離あるんだけど、そこを歩いて二周して、アイヌの貴重な遺跡を発見した人もいる。ポロナイスクにはニヴヒとかウィルタ (サハリンの原住民で、ツングース系)もいるんだ。ウィルタは50度から北に住んでいて、アイヌとは違うけど、やはり熊送りの儀式をする。アイヌと同じシベリア文化圏だね。 ところで、最盛期のサハリンアイヌってどれくらいの人数だったと思う? 江戸時代末期に三千人。資料を見つけてあんまり少ないんでビックリしたんだけど、少数精鋭だろ。 ニヴヒ、ナナイ、ウィルタはもっと少なかったらしいし、それでも異種族の間には交友関係はあったらしい。ポロナイスクで会ったお婆ちゃんが、私のお爺ちゃんはアイヌだったと言ってたし。 ポロナイスクはまるでムーミン谷みたいだったよ。」

>そこにかつていた主人公の一組だけがいない。

「そうなんだよ。役者が一組足りていない。オレはサハリンアイヌじゃないから直接は関係ないけれど、なぜかサウダージのような感じがしたんだ。」

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vol.3「歌のメロディーをそのままベースラインに置き換えるとレゲエになってる。」

>話を戻しましょう。今年の頭に10日間訪ねたサハリンから北海道に戻り、録音を開始してサハリンロック!と叫んだ。

「そうなんだよ。そこからは先は早かったね。」


>「SAKHALIN ROCK」以外の曲もサハリンからの影響を受けているんですか。

「行く前から作っていた曲もサハリンから帰ってきてから何かしら手を加えているので、サハリンのヴァイブスが全曲降りかかっていると思うんだ。」



>二年前に話を伺った際は、次回作はバンドではなくてソロになるとおっしゃっていましたが、結局バンド名義作品になりましたね。

「ダブ・アイヌ・バンドは常にこのメンバーでやってるわけじゃなく、フェスティバルに出るために付けた名前なんだよ。 今作は実はほとんど自分で作っているのでスタンスとしてはソロ・アルバム的だよ。ドラムまで自分で叩いているし。それをこれからみんなでライヴ演奏していくんだ。 「SAKHALIN ROCK」はそんな曲だ。それとは逆に、これまでバンドでしこたま演奏してきた曲も録音している。フェラ・クティ・スタイルだね」

>では、マルコス・スザーノとのブラジル録音「TONKORI MONIMAHPO」は?

「去年の9月にスザーノのスタジオで四曲取った時の一曲。彼は本物だから、サッカーで言えばミッドフィールダーみたいな人。 トンコリを弾き出すとカンドンブレのリズムを出してくれる。それで二人で遊んでみた。パンデイロという楽器、 特に彼の使っているものは音楽室に転がっているタンバリンと大差ないくらいのもので、叩くとショボイ音がするんだよ。 でも、彼が叩くとものすごい音になるんだよね。マイクにもそれなりの工夫をしていて、小さい音の楽器をデカく鳴らせる。 トンコリもそうじゃん。そんなにサイズのデカくない楽器同士、トンコリとパンデイロは親和性がある。それをデカイ音でやりたいって所も通じる。 彼もエレクトリックは大好きで、オレも大好き。だから一緒にやっていて面白い。」


「トンコリには変拍子も多いんだよ。4とか8みたいな西洋的な概念がないから、好きなところで音を区切っていく。」


>4曲目の「KON KON」は拍子が数えられないですね。

「そう。イントロはドゥービー・ブラザーズっぽいでしょう。でもドラムスはレゲエ。全体にもレゲエっぽいよね。七、七、四、三、三、三、四、四というリズム。」


>それはフレーズごと覚えるしかない。

「多くの人は四拍子に縛られているけど、オレ達はこういうのが出来ちゃう。これもアイヌ音楽の特徴」


>これは元々あったフレーズなんですか。

「これは曲かどうかすら定かではない。西平ウメさんの録音物を聞いていて、彼女がムックリを弾いてくれとせがまれる場面が残っている。 そこで彼女は、バスに乗ってわざわざトンコリまで持ってきて弾いているのに、ムックリなんて持ってきていない。弾けと言われても出来ないと、 暗に主催者へのブーイングが始まって(笑)。ムックリは持ってきていないから、ムックリのフレーズを口三味線みたいにやりますと言って「コンコンココン」とつぶやいて、 こうやって弾くんですよ、と。一回しかやっていないんだけど、それを元にして、ドゥービー・ブラザーズ風に。いや、出来上がってから、そう思っただけなんだけど。」


>5曲目の「TOPITARI」は釧路の春採アイヌの曲ですね。ウチの妻の実家が釧路なので、僕も春採に行ったことがあります。

「春採は歌のリズムとかすごく良いんだよ。この曲は今も歌われているのかどうかわからない。 歌のメロディーをそのままベースラインに置き換えるとレゲエになってるのがスゴイよね。ロビー・シェイクスピアになっちゃう。 さすがアイヌ、先祖はわかってるなあと。」


>アイヌ音楽には打楽器は使われなかったのですか。

「手拍子と声だけでグルーヴを作ってトランスしてたんだよ。」


>ドラムスとベースが入っているのが音楽の基本だと思っている現代人に、手拍子だけのグルーヴは伝わるものでしょうか。

「伝わってるよ。去年の夏にマレウレウ(OKIがプロデュースするアイヌ女性四人組のウポポグループ)がOOIOOと共演したことがあって、 OOIOOが負けた!と言ってた(笑)。歌と手拍子だけだし、決定的に誰もやっていない音楽だから面白い。」



>この曲のイントロに使われている太鼓は何ですか?

「ナイヤビンギのリズムみたいに聞こえるけど、サハリンアイヌのカチョーという太鼓のサンプリング。 骨の枠に皮を張っただけのフレームドラムで、シャーマンの楽器だったんだよ。娯楽用途ではなく、太鼓本来の使い方、呪術や魔術に使われていた。 また「もしも」の話に戻るけど、今もサハリンアイヌが健在で、ユジノサハリンスクのスタジオで現代のアイヌ音楽が録音されていたとしたら、 カチョーがアイルランドのボウラン(バウロン:ケルト音楽に用いられるフレームドラム)のように使われていたはず。間違いないよ。 北米インディアンも似た楽器を使う。そこに鹿のアキレス腱の弦を張ったトンコリを重ねた。この曲もドラムス&ベースという作り方じゃないじゃん。 かつて、足踏みしたり、手拍子したりして、みんなが踊って楽しんでいる場では、そこを包む音の迫力とかものすごいものがあったと思うんだ。 そこで想像の中でリズムを感じていたんだろう。」

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vol.4「ブルーズとアイヌ音楽、共通するんだよ。悲しいのと、やけくそなのが。」

>続く「HINA KAMUY」は熊送りの儀式=イヨマンテの曲。

「この曲はオレのセカンド・アルバムに収録した曲の再演なんだ。これはライヴ用のアレンジ。」


>ブルージーにスウィングしてますね。OKIさん、最近はライヴでトンコリだけでなく、エレキギターを弾くことも多いですね。

「オレはなんちゃってギタリストだけど、トンコリをギターに置き換えるのが目標かな。オレは弦楽器しか出来ない。 実はこのアルバムのベースはほとんどオレが弾いているんだ。だからギターよりもベースのほうがデカいかな。」


>「TAWKI」の作詞をしているアサンカラ・エカッチとは誰なんですか?

「旭川の子供達という意味。旭川に子供アイヌ語教室があって、子供達に動詞と名詞のカードを渡して。 名詞のカードには「お尻」とか書いてあって、動詞には「可愛がる」とか書いてあって、それを自由に組み合わせて好きな言葉を作りなさいという授業をやったんです。 ウチの子供も参加してるんだよ。それで子供達が好きな言葉を作ったのがこの曲のベースにある。「お尻 可愛がる」とかアホな言葉も子供達が考えたんですよ。 突拍子もないこと言ってるんだけど、その組み合わせにハッとしたり。そこにオレが詞を加えたりして。だからこの曲の印税はアイヌ語教室に還元したいと思ってるんだ。」



>2曲目の「OSORO OMAP」も子供達の作詞ですね。

「そのうちに全部子供達の作った歌詞だけで一枚アルバムを作って、子供にも歌わせて。セサミ・ダブ・アイヌ・ストリート・バンドみたいのをやりたいね。」


>えっ、OKIさんが着ぐるみ着るんですか(笑)!?

「熊の着ぐるみ着ようか?子供のことはアイヌとか日本人とか言ってられないけど、アイヌの文化助成は政府系だから、政権や社会情勢が変わるだけで切られたりする可能性が高い。 いわゆる事業仕分けですよ。基盤が脆弱だから。」


>続く「BEKA BEKA」はアイヌっぽくないのですが。

「この曲はケニアの曲です。ニューヨークに住んでいた時ラジオで流れていたんだよ。一瞬だけエアチェック出来て、 それを元ネタに作ったんだ。ピーター・キヒアって人なんだけど、ネットにも出てこないし、調べようがなかったので、作者不詳とクレジットした。 もし、彼が言ってきたら、日本でレコード発売契約を結びたいよ。こんな曲をケニアで作ってるなんてロックじゃん。その曲にデタラメな事を言う奴は沈めというアイヌ語の歌詞を付けたんだ。 戒めの曲だよ。」


>「KARAPT ARUY RIRI」、今作はブルージーな曲が多い。

「ルーツを探っていくとやっぱりブルーズに。レゲエって独特の発展をしているけど、もう一つ独特なのはブルーズ。 あるブルーズマンが、今ある全ての音楽が葉っぱや枝だとしたら、その中心にあるのはブルーズだと言っている。 そのブルーズに敬意を払って。それにブルーズとアイヌ音楽が合うんだ。スポスポとはまっていく。歴史的なものが共通するんだよ。 悲しいのと、やけくそなのが。自分の境遇を笑っちゃうような。それに女を刺すとか、刺されるとか、そんな話ばっかり。 ハウリン・ウルフとかリトル・ウォルターとか聞き直すと、録音は悪いけど、偶然すごいのがあったり、絶対演奏出来ないものもある。」


>そしてマイナス23度の強風下で弾くトンコリ、「PORONAYSK -23°」。

「向こうでフィールド録音を敢行したんだけど、ちゃんとしたマイクの風防を持っていくのを忘れて。風がすごく強くて、 この曲もガンガン風が入っちゃってデジタルノイズだらけ。最初はこれはダメと思ったんだけど、あえて一番バッドなテイクを入れた。 これによって作品全体に雰囲気が出たと思う。オレも曖昧でわけわかんないことを弾いている。というのも寒くて、手が冷たくて、指が痛くてこれ以上弾いてられなかったんだよ。 このオレの演奏の負け具合が昔の演奏っぽいよね。」


>寒さから打ってかわって穏やかな「FLOWER AND BONE」、これもレゲエですね。

「ニュールーツ系だね。最初のテーマは千島列島の海岸線に散らばるアザラシや鯨の骨、海抜ゼロメートルに咲き乱れる高山植物の群れ、みたいな風景。 それで「FLOWER AND BONE」と付けたんだ。でも、意外に穏やかな日の浜辺みたいに優しい音になった。
千島列島はヤバすぎ、厳しすぎ。去年の冬にさ、北海道新聞の一面にちょっと目に留まった写真があって。国後島で白いヒグマの写真撮影成功って記事。 見たら、たしかに白いヒグマなんだけど、前足だけしか写ってないんだ。アルビノではなく体毛が真っ白のヒグマ。白いヒグマがいると昔から言われていたんだけど、 その写真撮影に初めて成功した。ただし前足だけね。松前藩の絵師だった蠣崎波響(18世紀から19世紀に生きた松前藩第12世藩主松前資廣の五男、松前藩の家老、 アイヌの酋長を描いた「夷酋列像」が代表作)が描いた昔のアイヌ絵に国後島の親分の絵があって、白い犬みたいのを引き連れている。それが白いヒグマだと。 長らくその存在は忘れられていたけど、それがその記事でなんとなく日の目を見たと。
で、今回サハリンに行って、お土産屋に行ったら、なんか川辺にホゲ~って座った白い熊の写真の絵はがきが売ってたの。よく見たら、国後島の幻の白いヒグマだった。 それがもうしっかり絵はがきになってた。なんかすごく太っちゃって、幻のわりには緊張感なくてね。日本じゃ知らなかったから騒ぎ出したけど、サハリンじゃみんな知ってたよ。 昔からシロクマの古い種類じゃないかとか、白いから魚に気づかれにくくて生き残ったんじゃないかとか色々言われていて。とにかく国後島にしか住んでいない熊がいる。 そんな場所だよ千島列島は。択捉島にはロシア人が住んでるけど、それから北に行くとほとんど人が住んでいないし。そこに打ち上げられたアザラシや鯨の骨を思って。」

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vol.5「ワールドスタンダードではオレ達のやっていることは特殊じゃないよ。」

>そして、最終曲の「TOYA」

「歌詞は葛野エカシ(葛野辰次郎:アイヌ語を話し、カムイノミ=神祈りの伝承者で、アイヌの精神的指導者としてエカシ=長老と呼ばれた。2002年没)から。 もう亡くなってしまったけれど、アイヌ語の後生に残る素晴らしい功績を残した人。もし彼を日本の職業で言うなら思想家、哲学者だね。 昔、お世話になっていたことがあって、葛野エカシの神様への祈り言葉が好きなので、拙いながらもそれをオレがやらせていただきました。 これは彼に直接聞いたんだけど、録音物としても残っているんだよ。アイヌ語がわかる最後の世代という重い責任を背負っていたと思います。立派な人でした。」


>この曲にはシベリアのシャーマンのようなうなり声も入っていますが。

「これはサハリンのアイヌ的なうなり声。トンコリを弾きながらブツブツうなっているんですよ。サハリンの昔のトンコリを聞くと、 明らかに北海道のアイヌとリズム感が違うんだよ。それはキューバとジャマイカのリズムの違いくらいの違いがあるんだよ。それが面白いんだよ。 サハリンアイヌは北海道アイヌが持っていないようなヴァイブスがある。言葉が違うせいもあるかもしれないけれど、更にシャーマニックで、更にディープで、更に艶めかしい。」


>今は生で聞くことは出来ない。想像するしかないんですね。

「WOMADとか海外のワールドミュージックの音楽フェスに行くと、昔のものを引っ張り出してきて今やっているグループはオレ達だけじゃなく、幾らでもいるよね。 ワールドスタンダードではオレ達のやっていることは別に特殊じゃないよ。日本だと特殊扱いされるだけでさ。」


>参加された内田直之さんや沼澤尚さん、居壁太さん達は新作をどう言ってるんですか。

「みんな参加したことを喜んでくれて興奮してるよ。オレは毎日この作品と一緒にいたので、どういう作品を作っているのかよくわからなくなる時がある。 でも、みんなが、これはヤバイ出来なんじゃないかと、ずっと励ましてくれた。特にウッチー(内田直之)のミックスはすごく時間をかけて、慎重かつ大胆にやってましたね。 試行錯誤を繰り返して、二人がかりでやったミックスもあるし。」


>マスタリングも最後の最後になって一回ご破算にして、やり直したと聞きましたが。

「マスタリングの現場でダメ出ししちゃった(笑)。なかなかあの現場で勇気出せないんですよ。 要するに、これから飛行機に乗って発車しますと言ってるのに、乗らないと言い出してるようなもんです。 でも、問題点を一つでも見つけたらそこで直しておかないと。より多くの人に聞いてもらうには、そこまで突っ込まないとどこかで息切れしちゃうと思う。 オレの実力には限界があるけれど、現状で出来る範囲以上のものは作ったつもりだし、それだけ強い作品になったと思う。まあ長い目で見て下さい。 待ってもらっているファン、みんなのおかげで出来ました。6ヶ月かかって頑張ったんで是非聞いて下さい!」



>ロシア構成主義っぽいジャケットもカッコ良いですね。内側の見開き真ん中の写真、アイヌの熊送りの儀式の写真に写っている妙に低い位置の太陽は何を意味しているんですか

「それは逆光。常に自分を正面から照りつけてくる太陽に向き合ってる感覚。南国だったら太陽は上にあるよね。 昼間の十二時なのに夕方のような高さなんだよ。それは確実にメンタルを変えるような気がしたんだ。 そして一番右の文様はプレアイヌ時代のトナカイの角に掘られていたマークなんだけど、源氏パイの二重構造だ。 この不思議な文様が何を意味していたのかわからないけれど、立体的な文様がアイヌの木彫りに継承されている。 真ん中の写真はどこかで行われた熊送りの写真だね。一番左は西平ウメさんとオノワンクが生まれたオタサムの電信柱に付けられていたほうろう引きのパネルに書かれたロシア語のサイン。 「危険」という意味だろうね。だから右からプレアイヌ時代、アイヌ時代、ソ連時代の三つの時代を示しているんだ。そしてCD面はロシアの軍用地図からの転用。 この白い地形はツンドラ地帯なんだよね。そしてトンコリを立たせた写真はオノワンクがトンコリを弾いたであろうオタサムの浜辺。昼の十二時くらいなのにこんなに影が長い。 今はCDが滅びる時代と言われているけど、だからこそアートワークにも力を入れて、ジャケットまでしっかり作っておきたかったんだ。」


長い時間ありがとうございました。最後に今年の予定は。

「9月に全国ツアーをやるよ。夏のフェスには出ないから、是非見に来て下さい。それから秋にはイギリスに行って、ジャー・ウーブルと共演する。 オレはシベリアン・ダブみたいのを考えているんだけど、まだわからないな。まずは秋のツアーをよろしく!」


SAKHALIN ROCK TOUR 2010

9/3(金)渋谷 クラブクアトロ
9/9(木)函館 BLUE POINT
9/10(金)札幌 ジャスマックプラザザナドゥ
9/11(土)阿寒湖 アイヌコタン・オンネチセ
9/12(日)知床 CAFE PATH 〜OKI SPECIAL SOLO LIVE〜
9/17(金)京都 KYOTO MUSE
9/18(土)岡山 城下公会堂 〜OKI SPECIAL SOLO LIVE
9/20(月・祝)青森 三内丸山遺跡 縄文アートフェスティバル〜FEEL THE ROOTS〜
9/21(火)山形 SANDINISTA
9/22(水)秋田 感応寺 〜OKI SPECIAL SOLO LIVE〜
9/23(木・祝)盛岡 Maddisco 〜OKI SPECIAL SOLO LIVE〜
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OKI「SAKHALIN ROCK」ロングインタビュー END